* * *
「あ。け……は、な?」桜の木を戒めるように植えられていた暗色の芥子はすべて夜澄の雷撃によって焼けおちていた。自由を取り戻した朱華の叫び声が、朦朧としていた意識に細波を起こす。
身体を起こすと、そこには雨に濡れた白桜の花びらがへばりついている。自分が意識を失ってから、どのくらいの時間が経ったのだろう。それほど経ってはいないはずだ。瞳の先にあったはずの桜の古木は夜澄が落とした雷によって引き裂かれたはずだ。なのに、夜澄の目の前に、無残な状態となって倒れた桜の古木の姿は見えなかった。
あるのは深い、地獄さえのぞけそうな、真っ暗な穴と、その穴に横たわる白花の際立つ八重桜の折れた幹枝にしがみつく少女と、瀕死の重傷を負いながらも彼女に執着しつづける色素の抜けた髪と瞳を持つ幽鬼の姿……「――まだ生きているのか。しぶとい蛇め」
灰汁(あく)色になってしまった髪を含め、身体中を血で汚した未晩は、くすんだ灰色の瞳で嘲るように呟き、その口から血を吐き捨てる。血に濡れた手が掴んでいるのは、朱華の左腕。
「よかった……夜澄、生きてた」
だというのに朱華は、自分が危険であることに怯えているでもなく、夜澄が意識を取り戻したことに素直に喜びを見せている。
「お前、その状態で何言ってんだ! いま、たすけ」
「駄目だ!」慌てる夜澄に今度は上空から切羽詰まった声が届く。白い浄衣をまとった同朋たちは繰り広げられた壮絶な闘いを目の当たりにして表情を硬くしている。
言葉を遮られ、夜澄は不服そうに言葉がかけられた方向へ顔をあげる。「竜頭……」
黒檀色の髪をひとつに結い、風になびかせながら優しい雨を降らせつづける竜糸の土地神は、烏羽色に色を変えた里桜を瞳の色を戻した颯月へ預けると、容赦なく夜澄へ告げる。
「六つの地獄に引きずられしモノを、我らは救うことができぬ」
「は?」
目の前に穿たれた穴は、ただの穴ではないのか? 夜澄が救いを求めるように視線を巡らすと、黄金色のひかりをまとう氷辻が、かな
「これで安心だと思うなよ」 渦を巻くような轟音が地底から響き渡る。朱華の腕を掴んだまま、黙っていた未晩がニタリと嘲笑を浮かべる。「未晩」 「逆さ斎のちからを失おうが、オレは神に屈することのない幽鬼の王だ。地獄へ踏み落とされようが、神嫁となる朱華を共に連れていけるのなら、悪くない」 そして、一言、命じる。「神が穴に近づくことが叶わぬのなら、好都合だ。な、涯」 ミギワと呼ばれて、ひとりの少年がビクリと震える。「朱華が右腕で抱え込んでいる桜の枝を、破壊せよ」 「なっ」 信じられないと夜澄と里桜が顔を見合わせると、ふるふると震えながら、涯という名で縛られた颯月が、『風』の神術で炎の剣を編み出していた。「颯月……?」 「――どうして、その名でボクを縛ろうとするんだ。お前にとってボクは、いてもいなくても変わらないその程度のなりそこないなのに」 悔しそうに、颯月が剣の柄に手をかけ、降りつづく雨に対抗するように炎を燃やす。「いつからその口は、オレに対する文句をだすようになったんだ? ま、身体の方は抗おうにも抗えないみたいだがな」 「くっ……」 大穴の方へ足を向け、ゆっくりと颯月の身体は進んでいく。幽鬼に名を縛られ、身体を操られていることに気づいた里桜は、彼を引きとめるため、自らも『雨』の呪文を唱え、『風』の炎に対抗する長剣を地上へ召喚し、彼の足もとへ放り投げた。「ちょっと颯月! どうしちゃったのよ!」 虚ろな瞳の颯月を、茄子紺色になった里桜の双眸がきつく射抜く。「里桜さま……?」 「幽鬼に言われるがまま、身体を奪われるなんて、それでもあなた、桜月夜?」 竜神さまが起きたいま、代理神としての役割はもうないけれど。里桜にとって代理神を支えてくれた桜月夜は、誰が欠けてもいけない、かけがえのない存在。そのうちのひとりが、苦しそうに幽鬼に従おうとする姿を、放っておけるわけがない。「表緋寒の元逆さ斎よ。こいつの父親は幽鬼だぜ? 幽鬼の王たるオレが真実の名を呼べ
* * * 「あ。け……は、な?」 桜の木を戒めるように植えられていた暗色の芥子はすべて夜澄の雷撃によって焼けおちていた。自由を取り戻した朱華の叫び声が、朦朧としていた意識に細波を起こす。 身体を起こすと、そこには雨に濡れた白桜の花びらがへばりついている。自分が意識を失ってから、どのくらいの時間が経ったのだろう。それほど経ってはいないはずだ。 瞳の先にあったはずの桜の古木は夜澄が落とした雷によって引き裂かれたはずだ。なのに、夜澄の目の前に、無残な状態となって倒れた桜の古木の姿は見えなかった。 あるのは深い、地獄さえのぞけそうな、真っ暗な穴と、その穴に横たわる白花の際立つ八重桜の折れた幹枝にしがみつく少女と、瀕死の重傷を負いながらも彼女に執着しつづける色素の抜けた髪と瞳を持つ幽鬼の姿……「――まだ生きているのか。しぶとい蛇め」 灰汁(あく)色になってしまった髪を含め、身体中を血で汚した未晩は、くすんだ灰色の瞳で嘲るように呟き、その口から血を吐き捨てる。血に濡れた手が掴んでいるのは、朱華の左腕。「よかった……夜澄、生きてた」 だというのに朱華は、自分が危険であることに怯えているでもなく、夜澄が意識を取り戻したことに素直に喜びを見せている。「お前、その状態で何言ってんだ! いま、たすけ」 「駄目だ!」 慌てる夜澄に今度は上空から切羽詰まった声が届く。白い浄衣をまとった同朋たちは繰り広げられた壮絶な闘いを目の当たりにして表情を硬くしている。 言葉を遮られ、夜澄は不服そうに言葉がかけられた方向へ顔をあげる。「竜頭……」 黒檀色の髪をひとつに結い、風になびかせながら優しい雨を降らせつづける竜糸の土地神は、烏羽色に色を変えた里桜を瞳の色を戻した颯月へ預けると、容赦なく夜澄へ告げる。「六つの地獄に引きずられしモノを、我らは救うことができぬ」「は?」 目の前に穿たれた穴は、ただの穴ではないのか? 夜澄が救いを求めるように視線を巡らすと、黄金色のひかりをまとう氷辻が、かな
パリン。 硝子が砕け散るような音とともに、薄紅色の桜の花びらが周囲を覆い尽くし、視界を遮っていく。 それとほぼ同時に幽鬼によって生み出されていた宵闇色の瘴気が一気に霧散していく。生き物のように蠢きながら、悪しきモノの残滓が四方へ散らばり消滅する。まるで何かから逃げ出していくかのような均整の取れた動きに里桜は息を呑む。 ――これは、逆さ斎のちからを封じた忌術? なんで……? 里桜の身体が、糸の切れた人形のように崩落する。異変に気づいた颯月は無意識のうちに知らない神謡を詠唱していた。「Pokna moshir chikooterke iwan poknashir――踏み落とせ地獄の悪魔を!」 まばゆいばかりの金糸雀色の瞳が爛々と輝きを現し、颯月は高く跳躍する。 その様子を見ていた氷辻もまた、空色の瞳へと虹彩を変えて颯月へつづく。 置いていかれた里桜は何が起きたのか理解できないまま、水鏡から姿を現した竜頭に身体を抱きかかえられる。神々しくも馴染みのある壮大で柔らかなちからに包まれて、ようやく里桜は緊張を解く。「竜頭さま……?」 「里桜(りお)よ。このまま逆さ斎として、我が竜糸を守護してくれるか」 「何を……当然ではありませんか」 「雲桜を、復興させたいとは思わぬか?」 未晩に忌術を施され、強制的に逆さ斎のちからを奪われたときと異なり、このちからはどこか、迷いがあるようにも見える。もしかして、これは忌術ではなく。「これは、神術なの……?」 「さよう。朱華が未晩へ向けて心底から発した、幽鬼のなかの逆さ斎のちからを奪う神術だ。ちからを制御できずに、お前まで姿が真実(まこと)のものへと戻りかけているがな」「――あ」 月を纏ったかのような銀髪は、烏羽色に。 萌えいづる春のように鮮やかな緑青の瞳は、強きちからを有する茄子紺へ。 朱華を羨ましいと心のなかで封じていた願望が、神術によって新しいものへと作り変えられていく。その突然の変化に里桜は絶句する。「前と異なるのは、おまえが
「おとなしく見ていろよ。お前が求める男を、オレが葬ってやろう」 その言葉に、朱華は絶望的な表情を浮かべ、首を横に振る。「心配するな。明日になれば、お前にはオレしかいないってことがわかるだろうから」 けれど邪魔をするようなら、容赦はしないよと、未晩は朱華の素足に唇を寄せる。 ビクリと身体を震わせる朱華に、未晩は更に追い打ちをかける。「お前の身体を隅から隅まで調べたからな……桜蜜は夫婦になってからたっぷり味わうことにするから覚悟しとけよ」 身体中に刻まれた接吻の忌々しい痕。桜の衣に包まれたとはいえ、幽鬼によって真っ赤に辱められた朱華の肌は枝の隙間から顔を出している。こんな淫らな姿を、自分は外に晒されているのだ。 羞恥に顔を染め、怒りを込めて幽鬼を睨むが、未晩は知らん顔。「お。招かれざる客が入ってきたぞ。蛇神か。今度こそ息の根を止めてやろう」 朱華が磔にされた桜の木から見下ろすと、純白の蛇が、きらきらと燐光を振りまきながら桜の根元へ向かっていた。 ――だめ、こっちに来ちゃ! 無表情の蛇は幽鬼となった未晩を無視して朱華が囚われた桜の木へ滑り込むように身体を進める。 ――心配ない。俺が助けてやる。 朱華の心に、懐かしい青年の声が届く。幻覚作用を持つ芥子によって一時的に言葉を奪われた朱華を励ますように、白い蛇神は純白の桜花に囚われた朱華のもとへ急いでいく。 ――あなたは……? ――やっぱり、俺の名を忘れてしまったのか。 ――いいえ。幽鬼に忘却の術をかけられているだけ。あたしは彼方が誰か、知っている。だって、あたしが雲桜で甦生術をつかって助けた、蛇神さまだもの! 「――ならば朱華(あけはな)よ。俺と交わりすべてを思い出すがよい」 幹を伝っていた白い蛇は、朱華の言葉に強く反応して人型へと姿を転じる。 それは、黄金に泳ぐ琥珀色の双眸と、どこまでも清純なまじりっけのない漆黒の黒髪と、神殿の人間が着用する浄衣を身にまとった男性の姿。
* * * 「――や、ず、み」 別の男の名を呼び意識を失った朱華に応えるように、瘴気の壁が薄れてしまった。どこかに穴が開いたかもしれない。未晩は慌てて朱華を抱きかかえ、裏庭へ急ぐ。 外は土砂降りの雨が降っている。復活した竜神が浄化の雨を施したのだろう。だが、闇鬼を消滅させる雨は、幽鬼には通用しない。せいぜい未晩が張った瘴気の壁を崩す程度だろう。「神殿に出向く手間が省けたな」 どうせ彼らを始末しなくては朱華を自分の妻神とすることはできないのだ。竜頭を殺し、代理神と桜月夜を葬り、竜糸を我が物にし、鬼神としての器量を至高神に認めさせ、花神の加護を返してもらってようやく朱華は自分だけの朱華になるのだから。 神々の契約はけして破られない。それは、最悪死んでさえいなければ朱華がどのような状況にあっても、至高神は花神の加護をその身に返すということ。そしてそのちからを保った器を最初に犯し、夫婦神の契りを認めさせることで未晩は強大なちからを手に入れることが叶う。神々を悦ばせる桜蜜というおまけとともに。 朱華の記憶に支障があろうが、幽鬼を憎んでいようがいまいが、彼女の純潔がすでに別の男に奪われていようが至高神はたいして気にも留めないだろう。小うるさい土地神と違って至高神は幽鬼のように長い生命を司る孤高の女神だから。 浄化の雨はまだつづいている。壁の厚さがすこし薄くなったのか、外部からの攻撃によって建物が軋みはじめた。一か所でも崩れはじめれば、彼らは雪崩れ込んでくるはずだ。「朱華……お前はオレのものだ」 裏庭に一本だけ佇む白い枝垂れ桜の下で、降りつづける雨を気にすることなくぐったりしたままの朱華を抱き上げ、未晩は密やかに言霊を紡ぐ。「――神に逆らいし逆さ斎が命ずる。裏緋寒の乙女に花嫁装束を」 すると桜の花枝がしゅるしゅると伸び、朱華の裸体へ巻きついていく。巨木の幹へ縛りつけるように両手両足を拡げられ、幽鬼に接吻の痕を刻まれた無防備な肌が露出する。 未晩の声に賛同するように芥子花も蕾を開き、甘くて噎せ返るほどの芳香とともに闇のように濃い暗色
「そんな」 せっかく取り戻した記憶を、幽鬼にふたたび封じられてしまうなんて。悲痛な面持ちの雨鷺の顔が、水面に映る。「水兎。落ち着いて」 青ざめた表情の雨鷺に星河が手を握っている。ふたりは夜澄が見ていることに動じることなく、互いに身体を支え合っている。その前世を越えた絆の強さに、夜澄は心惹かれる。 朱華が支えに求めているのは、誰なのだろう。それが、自分ならいいと夜澄は強く願う。そのためにも早く、朱華を取り戻したい。雲桜を滅ぼした幽鬼に、彼女を渡したくなどない。たとえ嫌われてしまったとしても。 焦ってばかりの夜澄に、水鏡越しに、竜頭の低い声が届く。「心配するな。逆さ斎と幽鬼は別物だ。逆さ斎の神術を幽鬼が完璧に真似ることは不可能だ」 だが、幽鬼と対峙した夜澄は彼のちからを目の当たりにしている。いくら別物だからといって、安心できるわけがない。未晩が日夜彼女に施していたという淫らなおまじないが脳裡に過る。記憶を解き放つために夜澄と抱き合うことを選んだ彼女だが、真実を知って動揺しているところを未晩に奪われてしまった。このまま記憶をなかったことにされたら……夜澄は怒りを隠すことなく竜頭に反論する。「彼女の記憶がふたたび弄られてしまったらどうする!」 「何度でも愛を注いでお前が戻してやればよい。それだけの力をお主は持っておるだろう?」 当然のように竜頭は応え、莫迦らしいと毒づく。「……ほんと人間っぽくなったな。もし、裏緋寒を自分の神嫁にしたいのなら、いったん本性に戻れ。そうすれば俺が穴を開けてやる」 あっさりと提案する竜頭に、夜澄は呆気にとられた表情で両目を白黒させる。「――竜頭」 「なんだ?」 「そういう大事なことはもっと早く言え!」 「気づかない方が悪い」 ふん、と竜頭は鼻を鳴らし、星河の手を掴む。そして、土地神の加護を十二分に受けた守人と元代理神たちに向け、水術を放つ。「お前ら三人、そのまま持ちこたえろよ!」 竜糸の空に風が走り、鈍色の雲が竜神の気によって押し流されていく